ハート♥剛毛系

心が剛毛な心臓モサモサ系の人の散文。主に「自分のこと」を書くのがテーマです。

「自己の拡張」の感想の感想

友人に「AnonymousDiaryでこんな記事があったよ」と教えてもらいました。
真逆の願望を持っている方なんだけども、共感したのでこちらの感想を書きます。
全文はリンク先でどうぞ。

誰かとひとつになりたい

それ故に過去にはこの欲求に逆らおうともしていたけれど、最近はもう諦めて受け入れている。

それは私も同じだと思いました。

離婚した後、2年くらいずっと夜になると1人で「反省会」をやっていました。そこで、そもそも結婚前にマリッジブルーになっていたにもかかわらず「見て見ぬふり」をした問題が結局全て原因だったという結論に。
私は自分と相手の境界線を引かないと幸せになれず、その自覚がないまま関係を構築して失敗した。
やってみてダメだったんだから、もうしかたない。と今は受け入れています。

たとえそれを望んだ先に破滅があるとしても、それを求める気持ちは捨てられない。

境界線を曖昧にし、誰かと混じり合いたいという願望は決して破滅しか生まないとも思わないです。

大事なのは「自分の求める形を知っている」ことだと思う。
自分の欲求に逆らっても、幸せになることはできない。それを求めるのをやめてしまうと、自分の形を失ってしまい、何をしたら満ち足りるのかわからなくなってしまう。

おそらく私は、この世界を一人で生きていく自信がないのだと思う。

それは私にもありません。

だから自分の形を知り、境界線を綺麗に引いて、ぴったり一緒にいられる相手を求め、そのための努力を怠らないようにしたい。
それと同じように誰かと綺麗にまじりあって、破滅を招かず一緒にいられる方法はどこかにあるはずで、それを求めることは可能じゃないかと思いました。


ブクマのコメントでたくさん共感を頂いて、書いてよかったなと思いました。

いくつか「手に負えないこと」のイメージを共有できなかったと感じることがありました。
自分自身が「手に負えない」と感じて離婚の原因になったのは「人格」について。
私が最初の結婚において「根本的に寄り添えない、決定的な違い」に気が付いたのが結婚後だった。ある一部の例としていえば(それが離婚原因の全てではない)、彼はどちらかというと簡単に自己を拡張し「妻を自分と同一視する」ことが簡単にできる人だった。これは「幸せの形」が違うので、どちらかが相手の幸せの形に合わせるとどちらかが不幸のままになってしまう。これは私の手には負えないと思うことのひとつだった。
実際に法律婚をして関係性が変わってから、人格について気が付くことは多いと思う。結婚前の関係で気が付かなかったが、後から気が付いた「人格的な問題」についてとことん話し合っても「手に負えない」場合、私は「我慢してやり過ごす」ことが性格的に無理なので、別れを選択します。

「困った事」はいわゆるライフイベントに当たると思う。これは相手の人格関係なく「親の介護」や「自分の病気」「失職」などは降りかかる可能性は大きく、避けて通れない。
というか、これは結婚してなくてもパートナーの有無を関わらず避けて通れないのでそれは「手に負えない」とはあまりイメージしていない。パートナー、パートナーの家族と話し合い協力しあって解決することだと思う。その協力関係において、相手を「婚姻の義務」ではなく信頼できているので、今は自分達の関係に納得できている。ちなみに、おそらくそのようなことが「手に負えない」場合は「ライフイベントにかかわることによって露呈したお互いの人格の問題」なのではないかと思う。

私は結婚・離婚したことにより「自己」について考えることになったので、自分のケースを話すときに「婚姻」の話をすることは避けて通れないのだが、事実婚法律婚について話をするとデリケートな反応を示す人がいるのは「法律婚=けじめ」と考える人が多いからではないかと思う。
私自身も自分が結婚する前までそう思っていたので。

この辺の話は長くなるので、また改めて。
といいつつ、別に「婚姻について語る」ブログではないのでそのうちに。